そうさ君はムダに年をとりすぎたのさ
赤ん坊でいたかったと思うだろう
そうさすべてのものがめずらしく
何を見ても何をやってもうれしいのさそんなふうな赤ん坊を
君はうらやましく思うだろう(ムッシュかまやつ「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」より)
面白みに欠ける世の中
加齢とともに、目新しいものは減っていきます。何を見るときも、フィルターをかけてでしか見られなくなるというか。
人間の脳にとって、それは合理的なこと。毎回新しい処理をしなくても、過去の記憶や経験を元に処理した方が、余計なエネルギーも食わず、メモリも抑えられます。
それはたしかに効率的なことなのかもしれませんが、何だかおもしろくないんですよね。
あれもこれもどれも同じ。見たことがある。同じルールで処理できる。他の人がもう同じことをやっている。など等。
そんな風に世の中を眺めていると、「もう新しいものなんて存在しないのではないか」と、諦めを感じることもしばしばです。
「わかったつもり」でいたい心
諦めの心は、冷静に世の中を見つめているようで、弱さを持っています。
それは「わかったつもり」という弱さです。
「何もわからない」というのは、人間にとってはとても恐ろしいことです。だから、わからないよりは、「わかって」いたい。
例えそれが「本当はよくわからないもの」でも、わかったことにしていたいんですね。
色んなレッテル付けが世の中に溢れています。わかりやすいところでいうと「●●女子」とか「●●世代」とか。
メディアによる上手なネーミングかもしれませんが、根底にあるのは「わかったことにしたい」という人間の性です。
新しく「発見」された、自分と異なるような人たちの表側だけを見て「わかったつもり」になってはいないでしょうか?
「わかったつもり」の弱さは、逃避によるものです。真実にふれることにより、自分の属する価値観が揺らぐことを恐れているのです。
わからないことは、恐ろしい。
でも、真実にふれることも、恐ろしい。
矛盾しているようですが、ある程度、年齢を経た人が陥りやすい状況です。
変化を恐れ、自ら人生の幅を狭めていく。
「自分も大人になった」なんて言いながら。
眩しさの正体
たまに、たがの外れたような人がいます。いつまでも好奇心に溢れ、行動や変化を恐れず、世の中を変えていくような人たち。
彼らを目のあたりにして、あなたは眩しさを感じますか?それとも、自分の存在がとてもつまらないものに思えてきますか?
そんなときは、ぜひ自分の心に耳を傾けてみてください。
あなたは、別に彼らに嫉妬しているのではありません。好奇心を失ってしまったことを、ただ憂いているのです。
あなた自身、子供の頃は彼らと同じように、好奇心のかたまりだったのです。
心を失った悲しさ、できるなら戻りたいと思う気持ちが、あなた自身を責めます。
でも、そんな思いをするくらいなら、いっそ自由になればいい。
別に会社をやめようとか、そういうことを言っているのではありません。
ただ少しだけ、頭の回路を子供に戻してやればいいんです。
初めてのような心で
これは見たことがある。もう知っている。
そんなものに出会ったら、いちど立ち止まってください。
目に見えたもの、心で感じたものを、脳の自動処理には回さずに、それはそれとして一度受け取ってください。
それはスマートフォンではありません。カラフルな絵の貼りついた四角い板です。
動く鉄の箱の中に、人が密集していますね。彼らは一斉にどこへ向かうのでしょうか。
前置きのない、フラットな心が子供には必要です。
フラットな心で世界を見ると、今まで気がつかなかったことに、気づくことができます。
まるで脳の認知をつかさどる機能がフルリニューアルしたかのように、感じるはずです。
私はこのような変化を「認識の新地平の爆誕」と呼んでいます。
この爆誕は、限られた人だけに起こるものではありません。フラットにものを見ようとする心がけさえあれば、程度の大小はあれ、誰にでも起こり得るものです。
世界には、きっとまだまだ面白いことがありますよ。
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